「痛くはないか?」
「大丈夫です」
深々と冷える新春の夜、丁度良い温度に温められた寝室では、勘兵衛の毎晩の日課になりつつある七郎次のリハビリに付き合いながら、取り留めのない会話を交わしていく。どこまで回復するかは分からないが、それでも何もしないよりはずっといい。
「もう少ししたら、一度お主の実家に挨拶に行こうかの」
「そうですね。できれば銀龍様と三人で」
園長先生、喜ぶだろうなと七郎次は笑みを浮かべた。やっと願いが叶ったのだ。例え、どんな代償を払ったとしても。
「次は、銀龍様の番ですよね」
「そうだな。あ奴は何だかんだ言って自分を後回しにする」
七郎次の固まってしまった膝をゆっくりと丁寧に解してやりながら、勘兵衛は思う。彼女にも幸せになって欲しい…と。
***
都内でも随一と言われる一流ホテルの大広間の、その中でも一際豪奢なそこでは芸能界や政財界、その他各業界から招かれた著名人達が和やかに談笑していた。しかしその和やかな表情の裏で、所謂セレブと呼ばれる女性達は男性の格を値踏みし、己の美しさを競い合う。そして男は男で財力と権力の探り合い。
面倒くさ…。
良親は目の前の社長令嬢へ蕩けるような営業用の笑顔を向けながら心の中で毒づく。媚びる様な表情を向けてくるこの女の、自分を値踏みするような視線に内心辟易していた。
銀龍様なら、こんな目はせぇへん。
戦場の水に浸かった自分にとって彼女の眸は、どこまでも澄みきっていて透徹で美しく、そして恐ろしい。しかし、どんなに鮮血を浴びようとも変わらないそれが良親には救いだった。
今世は少ぉし女らしくなっとったし。
証の一族という立場故に離れなければとわかっていても、未練がましく心が揺れるのは修行不足だろうか。泣いた顔も可愛いらしかったとついつい口元に笑みを刷く。
「どうなさいました?」
「いや、少し思い出し笑いしてもうて」
と、そこへ入り口からさざ波のように広がった驚きと感嘆のざわめきは会場内に新たな客人が訪れた事を良親に伝えた。
「あら、雲居グループ社長のお嬢さんだわ」
珍しいですわねと続けた御令嬢の言葉を良親は最後まで聞く事が出来なかった。クロークに外套を預けた彼女は、優雅に周囲の客人と挨拶を交わしていく。大きく開いた背中や胸元の白い肌を映えさせるシックな黒のロングドレスに身を包み、普段は素っ気なく一つに束ねるだけの銀糸を高く結い上げている。
「雲居さん…」
サービスしすぎやろぉ――っ!
何であんなに肌晒しとんのと父親か兄の様な事を心の中で絶叫する。ちなみに、これが嫉妬だと彼は気付いていない。(合掌) 良親の視線の先で、銀龍は笑顔で壮年の男と挨拶したのか軽く頭を下げた。そして再び顔を上げたその刹那、男越しにほんの一瞬眸と眸がかち合う。しかし、彼女の表情が動く事はなかった。まるで、見ず知らずの人間と偶然目が合っただけのように。ほんの僅か、胸につきりと痛みを感じたのは気付かない事にして、良親は彼女から視線を外した。
良親の自分への関心を一気に銀龍に浚われた御令嬢は、涼しい顔をしながらも内心腸が煮えくり返っているのだろう。相変わらずお綺麗な方ですわね、と笑顔で呟かれた賛辞には、隠しきれない嫉妬が端々に滲み出る。良親はそれに気付かぬ振りをしながら、気配を消してそろりと身を引いた。
◇◇
やはり、来なければよかった…。
休憩用にと部屋の隅に置いてある長椅子に腰掛け、銀龍はさりげなく首筋を押さえた。左手首に巻いた腕時計の秒針で脈を計れば、少し早い。銀龍は元々、このような場は嫌いだった。向けられる好奇や嫉妬、そして好色な視線が耐え難く、また、愛想笑いを浮かべるのも苦手だ。
「何で無視するん?」
銀髪の美女は突如頭上から降ってきた声にぎくりとした。こんなに容易く間合いに入り込まれる事など、滅多に無いからだ。しかし、一拍置いてから声の主が良く知る男だと認識する。
「良…丹羽さん」
ああ、と納得した。この男ならば仕方無い。
「錦秋宴の若社長と雲居グループの社長の娘は面識が無いからだ」
どうやら銀龍が凭れている椅子の背凭れへ寄り掛かってきた美丈夫へだけ聞こえる声量で淡々と言えば、なるほどとすぐに理解する頭の回転の速さは昔からだ。確かに彼は“女医や六花会会長の懐刀である雲居銀龍”とは知己と言える。しかし、彼女のもう一つの顔である“雲居グループ社長令嬢の雲居銀龍”とは面識は無い。
「初見の者同士があまり親しげに会話すれば要らぬ勘ぐりを受ける」
「確かに」
どうやら、女傑殿は自分の“本業”に差し障りがあってはならぬと気を使ってくれたらしい。
「しかし、お前様はいつ見ても着る物のセンスが良いな。うちの連中にも見習わせたいくらいだ」
くつり、と喉の奥で低く笑った銀龍は何気無さを装ってこめかみを押さえた。ずきずきと頭が痛む。どうやら熱が出てきたようだ。
「またそんな事言うて。それよりも銀龍様、体の調子が悪いんと違う?」
鋭い彼の観察眼は先程彼女が脈を計っていたのを見逃す筈もなく。
「大丈夫だ」
靄のかかり始めた意識の中で、銀龍は大丈夫と繰り返す。そんな彼女を見て、良親は溜め息をついた。
「年上の者の言う事は聞くもんやで?」
銀龍様?と名を呼ばれたのを最後に、銀龍は抗いがたい睡魔に意識を手渡した。
***
目を覚ませば、実用性を重視した蛍光灯等とは違う、視覚的にも安らぎを与える為に配慮された灯りの置かれたホテルの一室。柔らかな光に支配された室内をぐるりと見回せば、枕元に座っていた美丈夫がそれに気付いて、慣れた手つきで脈を取り熱を計った。
「過労による発熱だそうです」
無理をなさいますなとあれ程言いましたのに、と怒られて、銀龍は思わず顔まで掛布に埋めた。
「すまぬ」
病による発熱ではないから取り敢えず水分を取って体を休めるしかない。身体を起こした彼女にスポーツドリンクを手渡して、良親はベッドサイドへと腰を降ろした。
「良親」
「はい」
何か欲しい物でもあるのかと思えば、彼女はぽつりと呟く。
「熱に冒された者のうわ言と思って聞いてくれ」
そう言って彼女は俯いた。その拍子に、解いた髪がさらりと流れて表情を隠す。私がお前の想いをはね除け続けたのは、これ以上大切なものを喪う事が恐ろしかったから。だから、大切なものはもう作らないと心に決めて…。
「今更だが…私はお前様が好きだった」
ずっと昔、おそらく初めて出会った頃から、好きだった。だからこそ、一度その想いに気付いてしまえばもう戻れない気がして。心の片隅に何重にも封印したのはいつだったか。
「…お前様を、愛していた」
吐息のように零れ落ちた言の葉は、決して明かされなかった彼女の本音。互いに好き合う者同士が結ばれぬ事は、はよくあることだ。それが、男と女…増して侍ならば尚更難しい。それに今世では、自分とこの男は敵とまでは言わないが、相対する立場に置かれている。
「そろそろお別れだ、良親」
今言った事はすべて忘れよと厳命する銀龍は、何処か遠くで声をあげて泣きじゃくっている感情という名の自分を垣間見た気がした。
――今の私は、おそらく軍師の顔をしている。
冷徹で非情。能面のように冷たい、生を感じぬ顔をしていると。
「承服しかねます」
ここまで黙って聞いていた良親の思いがけず強い声音に、傍らに座る彼を見遣れば酷く厳しい表情と射るような眼差しを向けられて、銀龍は思わずたじろいだ。
「と、言うよりは、貴女はもう上官では御座いませんので」
好きにさせて頂きますと言うのが早いか、ぐるりと視界が反転して敷布に腕を縫い留められる。同時に真白いシーツに広がった長い髪の上、顔の真横に手を付かれて抵抗を封じられる。
「いつも貴女は、俺の腕をすり抜けて何処かに行ってしまわれる」
その声音に激しさは無いが、しかし苦渋とやるせなさが滲む。本当は、彼女が気付いたら離れるつもりでいたのだ。自分にも彼女にも立場がある。
でも…。
「ここまで想いを告げてくれた貴女を、突き放せますか」
もう離しません、お覚悟なさいませと良親が言い添えるまで、あまりの事に呆気にとられていたらしい銀龍は、ふと苦笑いをその美貌へ浮かべた。
「…………酔狂な奴だ…」
「俺は真剣ですよ」
証の一族をなめてもらっては困る。どんなに逃げても地の果てまで追い掛けて行きますからと少々恐ろしい事を元上官へ告げた美丈夫は、最後に女泣かせの美声までご披露下さった。
「お慕い申し上げております。淡月様」
◇ 追記 ◇
「すまないが、そろそろ手首が痛い」
放してくれないかと言われ、ああ、すいませぬと拘束していた自分の手を退ければ、
――ぐるりと。
今まで自分を見上げていた女傑が、今度は見下ろしている。
「お返しだ」
まだまだ甘いなと意地の悪い笑みを浮かべた銀龍の頬に良親が綺麗な指で触れてニヤリと笑ったものだから、してやったり・立場逆転と思った銀龍は訝しげに眉を寄せる。
「銀龍様は…」
「な、何だ」
「“上”の方がお好みで?」
その瞬間の銀龍様の表情は実に見物であったと、関西訛りの美丈夫は、後に嬉々として語った。
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*うあああああ〜〜
この続きを私が書くですか?
…あ、どうしよう。のーまるCPの裏って書いたことないや。(笑)

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